留学カウンセラー金谷のブログ

普段留学したい人の相談にのっています。自分の留学の実体験や最新の留学事情を記事にしていきます。

留学時代に経験したあの歴史的大事件を語ろうと思う

こんにちは、金谷です。

 

私が、生まれたのは1980年、当時は冷戦の真っ只中で、9年後私が小学生の時にベルリンの壁が崩壊しましたが、無邪気な子供だったので、何も記憶に残っていません。中学生になり阪神淡路大震災地下鉄サリン事件など30年以上も生きていると、否が応にもいろいろな大事故・大事件を経験していきます。

 

しかし、私がアメリカに留学していた2001年~2006年の間に起きた大事件は、あまりにも大きなインパクトを全世界の人たち、アメリカ国民そして、アメリカに来たばかりの私にも残しました。

 

それが、

 

9.11テロ

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そして

 

その後のアフガン、イラク戦争

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 です。

 

この事件はいろいろな角度からあらゆる検証がなされ、皆さんもよくご存知だとは思いますが、今日は、私が一人の留学生としてみたテロ事件とその後のアメリカの一部を紹介したいと思います。

 

当日の様子

2001年9月11日は、火曜日でした。夏休みの間、ESL(English as Second langrage)という留学生向けの語学プログラムを終え、その前週からようやく本格的な授業が始まっていました。NYというかアメリカの北の端であるPlattsburg市郊外のClinton Community Collegeに通っていた私は、朝8:30のバスで学校の寮から30分かけて学校に到着し、いつも通りエントランスから図書館へ向かおうとしていました。その間のホールに、たまに大きなTVが設置されることがあり、話題のスポーツの試合などが観れる時があるのですが、その時もTVが置かれており、「こんな朝早くからなんかやってんのかな」というのが、最初の印象でした。しかし、次の瞬間、旅客機がWTCに突入するシーンがブラウン管に映し出され、一瞬思考が止まりました。よく周りを見渡してみると、多くの人が非常に深刻そうな顔で話し合っており、まだ事態が飲み込めていない私でも、異常なことが起きているんだなと確信しました。それから、しばらくして学校は全て休講ということになり一旦寮に戻ることになりました。その後の記憶は少し曖昧なのですが、車を持っていた1年先輩の日本人とその友人のアメリカ人から、市の外れにある救急センターに献血に行こうと誘われ、迷わず車に乗り込みました。今考えれば、外国人がなんの手続きもなしに献血はできないと思うのですが、当時はあまりにも理解を超える事態が起こったことで「とにかく何か出来ないか」という想いでいっぱいでした。そして、車が救急センターに到着したときさらに驚くべき光景を目の当たりにしたのです。それは、

 

献血を待つ何千という長蛇の列

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(画像はイメージです)

 

同じNY州にあるとはいえ、日本で言えば東京~大阪間くらいの距離があり、しかも周りの都市圏を含めても10万人以下の場所で、事件後数時間でこれだけの人が献血に駆けつけている。私は純粋に「この国の結束は凄い!」と感動しました。結局、あまりの人の多さに献血は断念することになり私たちは寮に戻りました。

 

寮の共有スペースに入ると、食堂も営業を停止していたので、寮長が近くのファストフード店で寮生用の食事を用意してくれていたのですが、都度帰宅した学生により、ほとんど残飯に近いような形でしか残っていませんでした。すでに時刻は夕方近くになっており、その日まだ何も食べていないことに気づいた私は、なんとか食べられそうなところを一人で虚しくつついていました。するとそこに、泣きはらした男女のカップルが入ってきて、私を見るなり女があきらかに敵意と侮蔑を含んだ視線を投げかけながら男に何かつぶやきました。その英語は全くわかりませんでしたが、「この外国人は、こんな大勢の人が亡くなっているのに、呑気に食事してるよ。やっぱりこいつらとは解り合えない」という意味に相違なく、男も「仕方がないよ、所詮他人事なんだから」という感じで、女を宥めながら再び外に出ていきました。今になってみれば、彼らのやり場のない怒りも理解はできますが、まだ若かった私はそのあまりの敵意に「泣く暇があったら、お前らも自分で何かできることはないかを考えろ!」とひとり憤慨しました。しかし、それを表現できない自分の英語力にもそれ以上の無力感を感じました。

 

その後

数日の間、学校は閉鎖となり、情報源であるTVは数ヶ月の間この話題で持ちきりでした。この事件以後、帰国のための飛行機の警備は桁違いに厳重になり、私が住んでいた平和な田舎町でもアラブ系に見られた外国人(実際にはインド系)が襲われる事件もおきました。食堂ではいつもサンドイッチの付け合せだったフレンチフライ(フライドポテト)がフランスがイラク戦争に反対したという理由で、フリーダムフライと改名されました。(全く浸透しませんでしたが)

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最後に

あの事件からまる14年以上がたちましたが、9.11以降のアメリカの中東政策は現在においてもこの地域に不安定とテロの連鎖を残しています。そして、私の中でもあの日、そしてその後に起こったことの衝撃を未だに消化できずにいます。多くの人の人生を変えてしまったあの事件が1日も早く本当の意味で終結すること願ってやみません。

私が英語が嫌いだったたったひとつの理由を語ろうと思う

こんにちは、金谷です。

 

今回は、そもそも私がアメリカに留学することになった経緯をお話したいと思います。一番最初の記事でもお伝えしましたが、私は留学するその日まで、

 

最も留学には向かない人間

 

でした。

 

それは、

 

英語が大ッ嫌い!!!!!

 

だったからです。

 

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その遍歴を紹介すると、

 


幼少期

我が家は、いわいる“教育熱心な家庭”で物心がついた頃から塾や水泳や合気道、スケートといろいろな習い事をさせてもらっていました。中には、あまりやりたくないものもあったのですが、当時の私は薦められるがままに、どんどん活動を増やしていました。しかし、唯一英語教室だけは頑なに拒み、1日の体験入学だけで挫折したのです。これが私の5歳のときの唯一の記憶です。

 

小学校時代

その後、小学校でローマ字を習った時も全く頭に入りませんでした。当時、北関東某県に住んでいた私は、中学受験を薦める母親の意見に従い、週3回新幹線で東京の塾に通っており地元では、神童(笑)扱いでした。そんな中、県で一斉テストなるものが行われたのですが、国語のローマ字のところだけ全問不正解で、ライバルだった生徒の親から「1点差で1位を取ってごめんなさいね。オホホ」という自慢話を延々と聞かされた母親が激怒しているのを横目に強烈な苦手意識をもったのでした。

 

中学時代

そして、苦労の甲斐あって中学受験を奇跡的に乗り切り、当時東大合格者数全国10位以内の有名私立進学校に進むことができたのですが、それが私と英語とのさらなる苦難の始まりでした。基本的に、私立の進学校は中学1年の時に1年と2年の内容を、その後は1年繰り越したカリキュラムを行い高校3年の時に、大学受験対策をみっちりやることでその実績を維持しています。他の教科はいざ知らず、強烈なコンプレックスを抱えた英語をこの速度で学習したことにより、私の英語嫌いは決定的になりました。テストは常に赤点、状況を改善しようといろいろ努力するが全く成果が上がりませんでした。そんなこんなでなんとこの進学校の高校に進学できないという落ちこぼれに成り下がったのです。

 

高校時代

その後、紆余曲折があり(長すぎるし、本編にはあまり関係ないので省略)なんとか某公立の高校に編入することができたのですが、不甲斐ない形に終わった中学生活を挽回するためには大学受験で一発逆転をするしかないと思っていました。そのため部活にも入らず(中学時代も遠距離通学のため部活には所属していませんでした)ひたすら学校と図書館、そして予備校を往復する日々だったのですが、英語は相変わらず芳しくありませんでした。そして結局、受験の配点にかなりのウエイトを占める英語の点数が響き、浪人するも大学受験に失敗してしまうのでした。

 

留学を決意

しかし、人一倍ツラの皮が厚い私は、最後の志望校の不合格が判明したあと、ショックを受けているだろうと気を遣う両親の前でご飯をおかわりし、「ちょっとは遠慮しろ!!!」と激怒され、怒り心頭に達した母親により、「英語を克服するために現地に行ってこい」、さらに経済学を学びたかったので、「ついでに世界経済の中心であるNYで経済を勉強したら一石二鳥だ」という非常にありがたい申し出をいただき、その時初めて自分が英語を話せたらどういう未来像があるのかを考えた結果、留学を決意したのです。

 

こうやってみると、英語がなぜ嫌いだったのかは明白ですね。

 

それは、

 

英語

 

を人とのコミニュケーションツールではなく、ただの受験の1科目としてしか見ていなかったからです。単語も文法もクイズ問題の延長線上では覚えるモチベーションは維持できません。

 

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もっと早く

 

英語

 

自分たちと全く違うバックグラウンドで暮らしてきた人たちとつながれるツール、そして自分の未来を変える武器

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なんだと気づいていたら、違う習得法があったと思います。

 

そして、「留学」は間違いなくその手段のひとつです。

 

今、留学に踏み出せないで迷っているアナタ

 

もう一度自分自身に問いかけてみてください。

 

もし、あなたが英語を通じてより多くの人とのコミニュケーションを求めているのであれば、あなたは必ず英語を使いこなせるようになるでしょう。

 

私がアメリカに留学をしていた頃を振り返ろうと思う

はじめまして、金谷と申します。

 

私は現在34歳、株式会社OTCという三重県ベンチャー企業で取締役をしています。私は大学生時代の2001年~2006年の4年半アメリカのニューヨーク州立大学に留学をしていました。

 

今でこそ、留学情報は、その受け入れ先やノウハウなど必要な情報を個人でも入手できるようになりましたが、当時、まだまだネットも今ほど一般的ではなく金銭的にも「留学」は簡単なものではなかったように思います。

 

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しかも、留学直前の私はというと、自立心に溢れ、英語が好きで、アメリカに憧れていたわけでは全くなく、

 

・身の回りのことは全部親任せ

 

・中学校、高校を通じて英語は常に赤点

 

・修学旅行以外で関東から出たことがなく、海外なんてもってのほか

 

というおよそ留学を志すような人間ではありませんでした。しかし、21歳の時にひょんなことから、突然留学生活が始まり大変なことも沢山経験しました。

 

私の先輩や同期の人間でも留学途中に挫折し、帰国した人も何人もいました。

 

そして、私自身もアパートで引きこもりとなり(学校には通っていましたが)1学期(約4ヶ月)のうち、まともに会話したのは2回だけという時もありました。

 

しかし、いろいろな人との巡り合わせと、生まれつきの鈍感力でなんとか大学をすることができ、今ではこの4年半の留学期間は私の生き方を根本的に変える素晴らしい日々だったと確信しています。

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そして、最近この留学時代の話をいろいろな人に話す機会があり、その縁でこれから留学を希望している人たちから相談を受けるようになりました。

 

そこで、僭越ながらこのブログでは

 

“留学カウンセラー”

 

として

 

留学しようか迷っている人、留学先での生活に不安を感じている人、

 

に私が

 

・なぜ留学をしたのか

・留学してよかったこと、悪かったこと

・留学後どうなったか

さらには

・学校生活

・仲間との出会い・別れ

・現地での生活の様子

・最新の留学事情

・時事ネタ


を皆さんに包み隠さずお伝えすることで、ひとりでも多くの人が新たな「きっかけ」を掴むお手伝いができればと思っています。

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とまあ、偉そうなことを言っていますが,

 

本当は、中年のおっさんが昔を振り返って懐かしんでいるだけなので、こんなやつもいるのかと気楽な気持ちで見てください。

 

よろしくお願いいたします。